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ウッシーのコラム

運転の巻

2017年04月27日

まだまだ夜は冷える。
朗らかな陽気が続いたかと思えば、また春陰が覆っていく。
綻んだばかりの新芽も、冷たい雨に曝されて散ってゆくのは儚いものだ。
まさに諸行無常の響きあり。

 

先日、釣りの帰り道にスピード違反で捕まり、なけなしの金が飛んでいってしまった。
あんな見通しのよい2車線の直線を誰が50キロで走るというのか。
そんなことをしたら忽ち大渋滞ではないか。
来月は自動車税やら何やら払わなければならんのに。
バイクなんて故障したまま動きやしない。
何のために税金を払っているのかわからん。

 

しかし、都市圏の休日におけるペーパードライバー率は異常である。
いわゆるサンデードライバーというやつだ。
ゴールデンウィークともなると尚更で非常にストレスが溜まる。

 

別に自身の運転を過信しているつもりは一切ないが、とにかく最近へたくそが多い。
女性ならまだしも、いい歳したオッサンなら運転ぐらいスムーズにこなしてほしいところだ。
昔は運転が下手な男はモテなかったものだが。

これはただの持論と偏見だが、車の運転が下手なやつは仕事もできない。
車庫入れとか縦列駐車とか、そういう技術的なことではなくて
状況判断能力があるかどうかの話だ。
それがなければ、そりゃあ仕事もできまい。

 

まぁ、時代錯誤なのかもしれんが、世の中をもう少しスムーズに動かすためにも
せめて運転技術の水準を上げていただきたいところである。

表現の巻

2017年03月16日

『表現の自由』というのは何とも便利な言葉である。
胡散臭いアーティスト達は猫も杓子もこの言葉を使いたがるが
所詮、「わがまま」である。

 

私自身、「個人」の表現は自由であるべきだと思っている。
思想、信条、言論、出版など、多岐にわたる「表現」は国によって干渉されるべきではない。
なぜなら、それら表現を受け入れるかどうかも個人の自由だからだ。

しかし、事実的に第三者が被害を被る場合、社会的モラルに反する場合、国家の干渉を受けて仕方がない。
人に迷惑がかかった時点で、それはアートでもなければ表現でもなく、ただの迷惑行為である。
これらを履き違え、表現の自由という空想に酔い痴れる輩が多いことこの上ない。

 

おっさんが公然で陰部をさらけ出し、
「これはアート表現だ」と言ったところで誰も共感などせんだろう。
ところが、1000人いれば1人ぐらいは共感してしまうやつが現れる。
するとそこには妙な協調性が生まれ、勝手に自分たちで気持ち良くなってしまう。

人はたったひとつの同調で1000の反駁を見失ってしまうのだから怖いものだ。

気を衒った言動が個性なのだと信じ込み、自己を正当化しながら他人を傷つける。
本人は気付くすべもなく、大義名分に背中を押されて進み続ける。

人間は自由に弱い。
然るべくルールがなければ、人間などいとも簡単に道を踏み外してしまう。
枠があるからこそ、芸術の道筋は生まれるのではないだろうか。

路の巻

2017年01月18日

冴える冬の夜。
清閑な都会の暗がりに、団地の灯が規則正しく並んでいる。
澄んだ空気の中、はっきりとした青白い輪郭が、その距離感を奪っていく。
あの灯、ひとつひとつに家族があり、そこにドラマがあるのだと考えると
なんとも言いようのない感慨が胸を走っていく。

盈満な人生とは程遠く、まして独り身のこの菲薄な日々に目を向けると
時折、他人の幸せが鋭い刃物のように心を突き刺してくるのだ。

地位も名誉も人望もなく、おまけに金もなし。
どこで道を間違えたのか、自分でもさっぱりわからぬ。
保育園、幼稚園、小学校、高校と、みなと同じように生活してきたはずだ。
同じように通学して、同じように授業を聞いていたはずなのに
いつしかあいつはエリート、我は根なし草の木偶の坊。
なぜだ。

そりゃあ、幼少の頃にしっかりと勉学に励んでいたかどうかが問題だろうが、
あいにく勉強は嫌いだったし、カルトじみた教育を受けた記憶もない。
そもそも、親や教師の教育方法など関係なかったようにも思う。
勉強しろと言われれば反抗し、言われなければとことんやらない。
本来、どこかで危機意識が働き、真っ当な社会人に向けて方向転換するものだろうが、
私の場合はそのまま我が道を進んでしまった。
後ろを振り返れば誰もおらず、気づいたときには
全く知らない場所を歩いている状況であった。

人生とは開拓。
道を作るというのは、単なる軌跡にすぎない。
ほかの誰かに歩いてもらう気など毛頭ないし、誰かのために道を作るわけでもない。
ただ、どうせいつか死ぬなら、自分だけの道を歩きたいものである。

謹賀新年の巻

2017年01月03日

謹賀新年。
殊更に挨拶したところで、コイツは正月早々コラムを書くほど暇人なのかと思われるのも癪ではある。
まぁ事実、暇なのだが。

 

ここ数年、周りの友人知人が段々と結婚しだしたのを皮切りに、
年末年始は自宅で大人しく過ごすようにしている。
朝までドンチャン騒ぎをするような歳でもないし、
食事に誘ってみても「家族と過ごすから」なんて言われて
妙な罪悪感と閉塞感に苛まれながら年末を過ごすのは御免だ。

暇といえば暇だが、これこそが贅沢な時間なのだろうと実感する。
予定も何ひとつ入れず、しばらく時間を好きなように使えるのだから、
これ以上に幸せなことはない。

 

休みの日でも普段より早起きして遊ぶタイプだし、
まったく予定のない一日というのは、一年を通して実は少ない。
だからあまりにも暇だと「どこか遊びに行かなければ」と
妙な強迫観念に迫られるのだが
年末年始に限っては、とことん暇を持て余そうという次第である。

 

下らないテレビ番組も、見飽きた映画も読み飽きた小説も、
心なしか早春の麗しい気配と相まって、私の胸の奥をすっと撫でるように
退屈さを紛らわせてくれる。

しかし、この長い休みが終わっていく虚無感というのが頭の片隅にずっとあって
夏休み終盤の学生のように、どこか落ち着かず、
変な焦りを感じながら幾許もない新年の夜を静かに過ごしているのだ。

 

結局、実家へ帰省することはなかった。
正月だからと、変に畏まって息子面するのも気が引ける。
お年玉をくれるなら話は別だが、そんなこと言おうものなら蹴り出されそうだし、
寧ろこっちがせがまれそうで油断できない。

この歳ならば、それなりの金額を渡して
「のんびり温泉旅行でも行ってこい」と親孝行の一つでもするべきなのだろうが
生憎、そんな金も心も持ち合わせるほど人間できていない。

 

さて、日常生活に戻ってしまう前に
もうしばらくこの気鬱な休日を味わうとしよう。

小舟の巻

2016年11月08日

陽の落ちる早さ、一日の過ぎゆく早さに迫られて
これではあっという間に歳を食って耄碌してしまいそうだと不安に駆られる。

無辺の暗闇にぼんやり浮かぶ蝋燭の燈が、段々と、そして着実にその揺らめきを落としているのは間違いない。
明るみは変わらずとも、もうほんの僅かな時を迎えれば、確実にそれは闇に飲まれてゆく。

人生など、蝋燭のようなものだ。
轟々と燃えていても、微風のひとつで簡単に消えてしまう。

人生が楽しいからこそ、それがいつか終わってしまう虚しさというのがある。
それが50年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。
そんなこと、誰も知るよしがない。

ただ、いつまでも続くと思っていたこの人生に、不確かな終焉が見えはじめたことは確かだ。
別に、病気になったとか、そういうことではない。
単純に、これまで無縁だった死生観が、年齢とともにその姿をちらつかせるようになった。
たかだか30過ぎの青二才のくせに、こんな甲斐無い心境に左右されるなど滑稽ではあるが。

 

何となく、これからの人生について、舵をとる方向が分かってきたように思う。
ただ風に押されるがまま進んでいた一艘の小舟が、今自らの意思を持って大海を進んでいる。
立派な社会人からすれば「今更か」と笑われるだろうが、
高卒の出来損ないがこの歳で気付けたのだから幸運である。

 

墨を突いて社会のはみ出し者となり、果ては行雲流水のごとく奔放に彷徨ってきた我が人生。
にっちもさっちもいかない時もあったが、まぁ不思議と何とかなるものだ。

生存の巻

2016年09月24日

大丈夫、私はこうして生きている。
SNSの類もやっていないため、直接会っている人間以外は私の生存確認などできないであろう。
まぁ、本来はそんなものだ。
能動的にコミュニケーションを取らねば、人間の関わりなど脆い。
大袈裟かもしれんが、こうして人は疎遠になってゆくのかと、妙な儚さを覚える。

 

私はというと、近頃はもはや釣り人と呼べるほどに、釣り道具を車に積んでは縦横無尽に走り回っている。
琵琶湖、淀川には毎週末通っている始末。
ついには、なけなしの金を叩いてカヤックを購入し、少年時代から憧れていたカヤックフィッシングに没頭しているのだ。
大自然の中、鏡面のように煌めく湖にプカプカと浮かび、コーヒーとタバコを嗜みつつ、 釣り糸を垂れる。

 

あぁ、なんと素晴らしい響きなのだ。
文字に起こしただけでも、男心がくすぐられる。
そんなこんなで、近頃は釣り関係の人間しか顔を合わせていないような気もするため
これじゃいかんと思いながらも、この充実したフィッシングライフを静かに満喫しておるわけである。

 

ガキの頃の私が見たらさぞ驚くことだろう。
釣りもスケートボードもバンドもバイクもその他諸々、まだやっているのかと。
おまけに大人になるにつれ増えてきた趣味の数々が、私の経済を圧迫してゆく。
睡眠も身銭も削って、生き急ぐように遊び呆けている私は
一体何を目指しているのだろうか。

 

ところが周りを見渡してみれば、そんな私よりもなお充実した人生を送ってらっしゃる諸先輩方がたくさんいるのである。
それも30,40ではない。
世間では初老と呼ばれる男たちが、子どものように目を輝かせて遊んでいる。
これは本当に素晴らしいことだ。
それと同時に、今の若者の大部分が大人しくあることに悲しくもある。
不良がいない。
ワルそうな格好してるのは多いが、不良がいない。
一体何をしているのだ。
一度しかない人生、遊ばねば意味がない。
寝る間を惜しんででも遊ぶべし。

富豪の巻

2016年07月04日

よくテレビなんかで、大富豪や会社社長が大きく散財しているのを見て
「あんなに贅沢しやがって!ムキー!」と僻んでしまう人も多いだろうが
ハッキリ言って世の中の一定数以上の大富豪には、
もう一ケタも二ケタも多く、ガンガン散財してもらわねば困る。

 

たとえば年収10億の富豪が、一度の晩飯に10万使ったなんて聞くと
とんでもない贅沢のように感じてしまうが、
年収500万のサラリーマンに換算すれば、晩飯に200円しか使っていないのと同じである。
年収200万のフリーターが風俗で2万使う方がケタ違いに贅沢をしているではないか。

 

とにかく、何度も口酸っぱく言っているように
金を使わない金持ちが一番の害だ。
これは僻みでも妬みでも何でもな い。
稼いだからには使ってもらわねば採算が合わない。

私も含め、低所得者が躍起になって消費したところで、
世の中に回る金など高が知れているのだから。

富の一極集中する東京だけではなく、
各地の地方自治体が少しでも潤うほどの消費がなければ
格差縮小などさらさら夢物語である。

時代の巻

2016年06月13日

いつしか、えらく生き辛い世の中になってしまった。
着実にすべてが便利になったものの、その利便性の代償は大きく、
どこか腑抜けた社会性が幅を利かしている。
私の少年時代は、まだまだ昭和の暮らしが色濃く残り、
金はなくとも人々が手を取りあい、日々を逞しく過ごしていた。
山間の名もなき集落のような田舎町ではあったが
子どもたちはみな活気に溢れ、里山を走り回っては、まっすぐ青春の真っただ中を生きていたものだ。
突如、彗星のごとく現れたファミコンのおかげで、
一時、町から忽然と少年たちが姿を消したこともあったが
それでも尚、私たちは飽きることなく夜の暗くなるまで泥にまみれて遊んでいた。
便利な時代ゆえに、人々は無駄を省きたがる。
やっても意味がないことは誰だってやりたがらない。
他に簡単な方法があるなら、わざわざ面倒なことはやらない。
そりゃそうだ。
しかし、何でもかんでも効率ばかり優先していたら面白くない。
昔の人間はそのバランスが上手かった。
携帯はなく、連絡は専ら自宅の電話であった。
ただ好きな子の声を聞きたいだけなのに、必然的に相手の親を仲介しなければならなかった。
だからみんな「何時頃に電話するから出てほしい」と事前に打ち合わせをしては
ひっそりと愛を確かめ合ったものだ。
だが、いかんせん小さい町だ。
当人たちはひっそりと言葉を交わしているつもりでも親たちはもちろん遠に顔見知りであって、
私たちの秘密の慕情はもろもろ筒抜けで ある。
そんなことは知る由もなく、純情な少年たちはそのはち切れんばかりの尋思を
夜が更けるまでしつこく語り合った。
しかし大抵は向こうの親御さんが堪忍袋の緒を切らし、ついには
「長電話禁止令」を我が子に叩きつけるのである。
無論、それは私たち男子に向けた親からのメッセージでもあって
いかに相手の親を手中に入れるかが勝負であった。
ポケベル、携帯が普及するまでは、本当にみな頭を悩ませたのだ。
今思えば、そういったやりとりは世渡りの縮図のようなもので、
携帯のなかった世代は随分と鍛えられたのではないだろうか。
昔は、恋愛ひとつでも面倒なことが多かった。
だが、それが面白かった。
そもそも、本当の意味で無駄を省くというならば
世 の中99%が無駄である。
生きることさえ無駄な気がする。
あえて陳腐な生き方をすることで
無駄を楽しめることもあるのではないか。

緩慢の巻

2016年06月10日

私としたことが、あまりにも放置しすぎてしまった。
もう読者など一人もいないのではないか。
継続とはまことに難しいものだ。
こんな、ブロガーの風上にも置けぬ体たらくな人間が
一丁前にコラムなどと世迷言を口にしていたことを一切合財謝罪したい。
この際、『●日に一度は書く』と自身に命じるべきか。
さて、気がつけば6月に突入し、夏がもうすぐそこまで来ている。
私はというと、車検に自動車税、バイクの税金に自賠責と根こそぎ持っていかれ、
もう首も回らぬ有様である。
いやぁ、参った。
ここ数年、貯金など下らぬことはやめて
地域活性のため有り金は使いきるという、
何とも節操があるのかないのか分からない生活を送ってきた。
お陰様で突発的な出費には対応しきれず、乞食の如く日銭を集めては耐えしのぎ、
どうにかこうにか生き長らえている。
私ぐらいの年齢だと、世間ではもう立派な社会人の仲間入りを果たし、
大きなプロジェクトを任され、それなりに部下ができ、
愛する家族ができ、一軒家を購入し、子どもと動物に囲まれて
幸せ溢れる日々を送ってらっしゃるのだろう。
どこでこうなった。
あぁ、同郷の好に合わす顔もなし。

彩りの巻

2016年04月07日

大阪の町並みも桃色に映えてきた。
そんな初春の彩りが紺碧の空に飲まれてゆく時の名残惜しさというのは
どこか旅の終わりを迎えるようで妙に寂しくもある。
本当に、驚くほどあっという間に月日が流れていく。
子供のころ、あんなにも大悠に流れていた時間が
今では駆け足で過ぎ去っていく。
今こうして爛漫に咲き誇る桜もいつか散り、
散った桜もいつか風に流され姿を消していく。
それがこの世の道理というものだ。
散財できるほの金はないが
自分なりに充実した日々を送れていると思うし
好きなことや物事、新しいことに恵まれ、刺激的な人生だと言える自負もある。
ところが、こうして一日が終わろうとする時に感じる切迫感みたいなものは
明らかに子供のころになかったものだ。
無限にあると思っていた時間、未来というものが
こんなにも一瞬に、手の届かぬ彼方へ去ってしまうようになった。
春も夏も、秋も冬も、
あと何度迎えることができるのだろうと、辛気臭く考えてしまう。
まだまだ青二才のくせして、何をセンチメンタルになっているのかと笑ってしまうが
悔いのないように生きることは難しい。
しかし少しでも、精一杯に日々を謳歌して、笑って死んでいける人生にはしたいものだ。

 
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