欠落の巻
2017年08月30日
このコラムを通して、いかに私の人間性が欠落しているかがよくわかると思うが
そもそも他者と同調する気など微塵もないため、好き勝手に書かせていただいている。
無論、これでもかなりセーブしているが。
誰もが心のどこかで薄々感じていることを私は声に出して言っているだけだ。
あえて世間の常識を裏返して問題提起し、それらが本当に常識なのかどうかを問うことは
なかなか有意義ではないだろうか。
人間というのは誰だって誤謬を恐れるものだ。
自分が長年信じてきたものが「実は間違っていた」なんて夢にも思わないし、
仮に事実を知ったとしても「きっと何かの間違いだ」と自己肯定を始める。
そこですぐに「なるほど、勉強になった」と柔軟に思慮できる人間は大したものだが
大抵はそれをすぐに認めることができず、これまで盲信し続けたものの立場を守ってしまうのである。
別に間違っていること自体が悪いことではない。
そもそも生き方、思想などに正解はないわけで、他者がとやかく言う意味などない。
問題なのは隔てがましい同調意識だ。
それこそが社会全体を窮屈に至らしめている根源である。
マジョリティーが正しく、マイノリティーが間違いだという屁理屈は
私たちが小学生の頃から続く戒めのようなものだ。
波風立てぬよう振る舞う大人の名分は確かに必要だし、大多数に同調しているのが一番楽な生き方だろうが
死ぬまでそんなことを繰り返していると自我なんてものは何の役にも立たない。
無理して人に好かれようなどと考えず、気楽にやり過ごせば余計な足枷などなくなる。
そりゃあ善人に越したことはないだろうが、本当の善人というのは元より善人なのだ。
無理をして、人の顔色を伺いながら積んだ徳など何の意味もありゃしない。
人に迷惑さえかけなければ、誰かに嫌われることなど何も恐れることではないのだ。
そして、自分が思っている以上に他人は自分のことなど見ていない。
好意を抱いている相手以外は、誰だって大して興味がないのである。
かといって自己中心的に人を蔑ろにしていては友達さえ失ってしまうが
そのへんの塩梅は10年20年も生きていれば誰でもわかるのではないだろうか。