JUG A BILLY CATS

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ウッシーのコラム

償いの巻

2015年06月24日

梅雨の晴れ間。
柔らかい繭に包まれたような
朗らかな安堵が取り巻いている。
忙しない日常、果てしない途上。
愚直に生きるのも馬鹿らしいが
この酷薄な世情において
懐疑ばかりでも退屈である。
不器用に生き、器用に死す。

盛りの巻

2015年06月21日

それは曇天の匂いに紛れてやってきた。
まだ幼かった頃。
夏の盛りを迎える前の、ちょうど6月の今時分であった。
山間いの田舎町に雨の時期がやってくると
播磨富士が神々しく霧に浮かぶ。
取り立てて高くはないが
地の人間からは「笠形さん」と親しまれている山だ。
濛々たる煙霧が空まで届き
極楽へと続く道のように荘厳な情景を露にする。
陽が落ちれば、川辺に小さな明かりが灯る。
それは一つ二つと次第に広がり
気付けば眼前には蛍の乱舞が現れる。
まるで女郎花が乱咲しているように
幾万の蛍火が眩ゆく暗闇を照らし出すのである。
木々の揺れる音
川のせせらぎ
蛙の聲
それ以外は一切の静寂だ。
なにもない。
恬淡、佳絶の極み。
そんな生暖かく風のない夜は
決まって鼻を掠める匂いがあった。
土の匂い、草の匂い
それらが交じり合った田舎特有の匂い。
春でも夏でも秋でも冬でもない。
この6月の雨の時期でないと感じることができない匂いがある。
それがふと、この大都会のど真ん中にいながら鼻を掠める瞬間がある。
風にのってやってきたのか
雨に運ばれてきたのか
大人になった今でも、それらは私をあの銀河の一片へと連れ戻してくれる。

先行きの巻

2015年06月20日

古鼠はゆく。
気にも留めず。
抗いを苦にせず。
古鼠はゆく。
謙らず。
冗漫に拘らず。
古鼠はゆく。
明日も見えず。
明日さえ知らず。
ただ 、そうしたいからゆく。

懐疑の巻

2015年06月17日

人は誰しもが自身の人生に疑問を覚える瞬間が一度はある。
これでいいのか?
もっと別の生き方があるんじゃないのか?
多くの人に出会い、世の多くを知れば知るほど
まるで自分の生き方が無聊に思えてきて
妙な躁急に急かされしまう瞬間。
どれほど現状に満足していたとしても
「あの時、あの道を選んでいたら・・・」なんて
虚心の欠片を一つでも拾い上げると
ありもしないサイドストーリーがパラパラと描写される。
後悔せぬよう、やりたいと思ったことは大抵勢いでやってしまった方がよい。
そうすれば余計な杞憂はなくなり
胸の奥に詰まる蟠りのようなものはなくなってしまうことだろう。

鬱情の巻

2015年06月12日

雨はこの世界を途端に変えてくれる。
戯しく雨粒が踊るのを窓辺で眺めていると
まるで自分が別世界にいるような感覚である。
夜がきて雨上がれば
車道には街角のネオンが逆さまに姿を現し
鏡を敷いたようにキラキラと
まるで地底に煌びやかな町並みがあるのではないかと錯覚させる。
大層に美しいものだ。
このときばかりは雨もいいものだと思う。

本能の巻

2015年06月07日

脹やかに整った女の下肢というのは哲学である。
それらは男にとって自身の性的意義を考えさせ
時として様々な感慨を産ませる魔物である。
生物学的に見れば、男というのは
「元気な赤ん坊を産んでくれそうな健康な女」を本能的に求める。
私もどちらかといえばそちらのタイプだ。
四肢に程よく肉が付き、肌はうっすらと陽の色を宿し
勁健な血流が隈なく流れているような溌剌とした肉体に
蠱惑的な魅力を感じるのが、いわば「本能」である。
ところが
子鹿のように筋ばんだ繊美な肉体で
瑠璃色に血筋が浮かぶような白い女が好きだという男児も多い。
しかし言ってしまえばこちらもまた本能である。
メスを守ってやりたいとするオスの本能。
では本能ってのは一体何なのだという話になってくる。
「この女とセックスしたい」という所感が本能なのか
「セックスは関係なく守ってやりたい」という所感が本能なのか。
人間は動物的であり、動物的でない。
動物というのは思弁を持たぬからこそ本能のまま動くのであって
思弁を手に入れた人間はすでに本能など一切持ち合わせていないのかもしれない。

泣き空の巻

2015年06月03日

知らぬうちに今年も半ば過ぎようとしている。
閃光のように赫いていた初夏の鋭い日差しは
いっときの泣き空に覆われ
髪を梳くようにやわらかく大地を拭ってゆく。
摩天の煌きは朧ろに陰り
暗雲破る龍神のごとく徒めいている。
その銀鱗が雨となり川となり
彩踊る夏の息吹を連れてくるのである。