JUG A BILLY CATS

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ウッシーのコラム

闇の巻

2014年12月29日

こんな年の暮れに独りで飯を炊く。
何たる世知辛さ。
まぁ元来より独りで居ることの心地よさを何よりも大事にしてきた私が
今更になって心寂しいなんて言うのも滑稽すぎて涙が出そうではあるが
年度末ぐらいは気の知れた仲間と「あーだこーだ」言いながら鍋でも囲みたいものだ。
今のところ、私の人生シミュレーションにおいては
『野垂れ死』というのが最も確率が高く、最も考えられる最期である。
病で床に伏し、異臭で近隣住人に発見されるか
旅の途中で強盗に刺し殺されるといったところか。
愛する家族に看取られるなんていう幸せな結末は限りなく皆無に近いだろう。
死に際に『あぁ、いい人生だった』と思えるのならば
死に方なんてものは大して重要ではない。
これといって拝む神などあるわけではないし
輪廻転生などという都合のいい死生観は興味ない。
そもそも『死んでも生まれ変われる』なんていう絵空事を
いい大人が信じて無垢な子どもたちに教え込むのは如何なものか。
『また生まれ変われるなら今回の人生は適当でいいや』
なんて言って無意義に過ごしてしまう子どもだって居かねない。
物は壊れれば終わり、人は死ねば終わる。
『次』などない。
だからこそ森羅万象、すべてが尊いのである。

椿の巻

2014年12月28日

天泣に濡れた寒椿が
その真紅の花弁を頑なに閉じていて
それでいて今か今かと綻びを待ちわびているようにも見える。
それが、まだ花開かぬ女のようで
どこか愛しく、尊くもある。
ふとした景観の中に
いつぞやの色恋を見たりすると
まるでそこに昔の自分が立って居るようで
時の止まったような、淡く温もりのある何かが
ポッと胸の中に火を灯していく。
玉響の物想いに今日も足を止めて
年の瀬の過ぎ行くのを見つめている。

4日の巻

2014年12月27日

『もう、あと4日で終わりやなぁ』
風呂屋の暖簾を潜ると、番頭はため息混じりにそうこぼした。
褞袍を首元まで深く羽織り
年の瀬を数えるように新聞をめくっている。
人も疎らである。
こうして静かに年を越してゆくのも悪くない。
そう思うのであった。

寛容の巻

2014年12月26日

『食の寛容さ』という件で以前も書いたばかりだが
またしても『食』をテーマに能書きを垂れさせて頂こう。
昨今より、世間の健康志向が随分と向上し
誰もが身体に良いものを求め、食の安全性を問うようになった。
では身体に良いものとは一体何なのだろう。
巷で健康食ブームが囁かれ出したのは恐らくここ数年だ。
それに伴いよく耳にするのが『オーガニック』という言葉。
10年前にはこんな言葉は聞いたこともなかった。
大人になり、この言葉の意味を調べてみると
そこには『ごく当たり前なこと』が恰も高尚なことのように並べられていた。
そう、田舎育ちの私にとって
それらは敢えて口に出すほどのことではなかった。
『挨拶はちゃんと しよう』とか
『ゴミのポイ捨てはやめよう』とか
そういう稚拙な常識を博識のごとく熱弁しているような滑稽ささえ感じられた。
もちろん、例え誰かにとって稚拙であっても
それを敢えて公言し広める行動自体は素晴らしいことだ。
ただ単純に、同じ人間であるのに根底的な部分で相容れない
そんなところで妙な歯痒さを覚えるのだった。
私にとって食の概念とは『楽しむもの』だ。
健康のために食べているという感覚はない。
インスタントも食べるしジャンクフードも食べる。
化学調味料でも保存料でも何でも来いだ。
しかし、これらは一般的に『身体に悪い』とされる。
身体に悪いものを食べてなぜ太るのだろう。
身体に悪けりゃ身体が拒絶し、そのまま排出されるのではないか。
確かに身体に良いってことはないだろうけど
重要なのは何を食べるかではなく、どれぐらい食べるかである。
過ぎたるは及ばざるが如し。
食もまた然り。

金の巻

2014年12月25日

物入りの多い年末とて、無い袖は振れぬもの。
しかしながら、自身の生活の乏しさを景気のせいにするのは正気の沙汰ではない。
まったくもって愚の骨頂。
政治家が我々の生活の面倒を見てくれると思ったら大間違い。
彼らの仕事は国益を上げることであって
国民の生活だとかそんなものは二の次だ。
きっと『知ったこっちゃない』
自身に恩恵がないからといって政治批判するのはあまりにも幼稚である。
恩恵が欲しけりゃ努力しかない。
金なんてものは別段それほど価値のあるものではない。
頑張って働けばその分稼げるものだ。
言ってみりゃ誰でもできる。
それよりも自分にしかできない何かを見つける事の方が価値がある。
それでこそ生きて いる実感がある。
幸も不幸も自分次第。
やりたい事があるのに我慢する必要など一切ない。
その思いが本気ならば
人生を擲ってでもやるべきだ。
夢を叶えるのに一番大事なことは金でも環境でもなく
どれだけ人生を擲つことが出来るかである。

善悪の巻

2014年12月23日

勧善懲悪は成立するのか。
面前で正義なんてものを振りかざせば
たちまち偽善者のレッテルを貼られる始末。
それ故に人はみな常々『悪』で居たがるものだ。
『悪』で居ることの方が楽だからである。
もちろん誰しもが正義を持ちあわせている。
それは良心の呵責によく似た、如何にも日本人的なもので
道徳的な人道から外れ ることへの不安や躊躇
つまり誰かのための正義ではなく
そこにある正義はすべて自分自身に働くものだと言える。
悪を懲らしめるより、善を尽くすことに正義を見出す人が多い。
それに懲悪に伴う暴力は勧善に成り得ないという。
イジメっ子を殴ってイジメられっ子を助けたとしても
その正義は認められず、本来正義であるはずの者まで咎められる。
『正義は勝つ』とは言いつつも『強さ』は正義として扱われず
いつであっても弱い方が正義として成り立ち易いのだ。
弱者であればあるほど正義や正当性が増し
民衆は知らず知らずそちらの肩を持つようになる。
そのあまりにも蓋然的な社会システムの中で
本当の正義が認められる日は来るのだろうか。

波紋の巻

2014年12月21日

夜の微睡みが心地よく
薄い明かりの下で目を瞑る。
外の寒さなど遠に忘れてしまって
まるで深い夢の中に浮かんでいるような陶酔感を覚えるのだ。
冬の静けさというのは
虚無の疎外感だとか孤独感に似ている。
波紋一つない水面がずっと向こうまで続いているような
怖いようでどこか落ち着き払っていたりもする。

淳二の巻

2014年12月20日

稲川淳二といえば、もはや夏の風物詩といっても過言ではない。
ところが、この大寒波吹き荒れる年の瀬に
稲川淳二の怪談ナイトが開催されるということで
物好きな友人たちと集まり参加してきたのだ。
会場は小さなライブハウス。
そこに50席ほど椅子が並べられ、無論満席である。
暗転と同時に妙な緊張感が 走り
不気味なSEとは裏腹に剽軽な笑顔の氏が登場すると
フロアからは『淳ちゃん!』とか『淳二!』とか
まるで歌手のライブのごとく声援が溢れる。
その一つ一つに手を振り終えると
落語家のように小さく椅子に腰掛けた。
ドロドロと不気味だったSEは気付かぬうちに虫の鳴く音に変わっている。
他愛のない世間話に笑いのエッセンスを交えながら
フロアの温度をゆっくり上げていくところは
さすが10年以上も怪談をやり続けるベテランだ。
知らず知らず客席が前のめりで耳を傾けていく。
まず氏は『怪談とは何ぞや』という持論から語りだした。
その一つ一つの言葉に
『あぁ、この人は本当に怪談を愛してるんだな』という
熱意や情熱のようなものを強く感じる。
河童の怪談を取り上げながら
怪談がどういう経緯で怪談となったのか
その怪談が持つ悲しさや人間模様をゆっくりと語る。
氏の言う怪談とは民俗学や地域風習などの面白さが根底にあって
ただ『怖い話』という単純なものではないようだ。
なるほど、実に面白い。
そういう解釈をしたことはなかった。
つまり話が怖いかどうかは重要ではなく
氏の目指す怪談というのは
それぞれの話に基づいたドラマをも汲み取ることで
日本古来の生活風習や文化、民族性に触れることにあるのだろう。
事実、会場はときに笑い声が混じり
『怖さ』に執着している感じはまるでなかった。
子供の頃に田舎の婆さん家で昔話を聞いていた時のような
怖いようで楽しくて温かい、そんな心 地の良い空間であった。
余談ではあるが
稲川淳二の怪談は画が浮かびやすい。
さすが元テレビマンといったところで
背景描写やコマ割りがとても上手く、映像を観ているようにテンポがよい。
そして氏が唐突に発する擬音。
『コツッコツッ』『カランカラン』『ギィギィ』
このタイミングに合わせてPAがリバーブをかけ臨場感を煽る。
阿吽の呼吸というやつだ。
とてもいいものが観れた。

私を見るものの巻

2014年12月16日

漆黒の空は朧気な私の面持ちを刺すように
その凛と冴ゆる月光を飛ばしている。
長い寒暁を待つその切なさ。
遠い旅路の果てを想うように
堪らなく、どこかこそばゆい。
追憶は瞬く間に時代を駆け戻っていく。
あの時代、あの瞬間に想いを馳せると
虚しさが胸の底を打ち付ける。
戻らぬ時も帰らぬ友も
いつだってその影だけが揺れ動いている。
手を伸ばせば届きそうな場所で、今日も私を見ている。

妙な寂しさの巻

2014年12月15日

ふと立ち止まり、曇天を見上げる。
見窄らしく浮かぶ凍雲が冬の形相を浮かべている。
あぁもう今年も終わりかと面白味のない独り言をこぼすと
空から鼻で笑うような声が落ちてきた気がした。
こうしていつも幾許かの日々を数えるのだ。
妙に寂しいものである。
小さな幸せ、大きな幸せ。
短い幸せ、長い幸せ。
代わり映えのない日常に垣間見える幸せもあれば
激動に絶え間なく流れていく幸せもある。
他愛なくも、儚く刹那に消えていくその一瞬こそが
本当の意味で人生であり、軌跡でもあるのだろう。
そしてそんな一瞬の幸せを追いかけ
今日も日が暮れていく。

 
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