JUG A BILLY CATS

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ウッシーのコラム

佇立の巻

2013年11月28日

年が暮れてゆく物悲しさというのは、まるで人生の終焉でも見ているようで
何となく気分が晴れず落ち着かないものだ。
これは独り身だからこその、取り留めのないただの悲哀なのか。
いや、今更になって悲哀など感じるほどの身分でもないはずだ。
クリスマスだとかで賑わう街の中を一人で練り歩くことに寂しさなど覚えず
寧ろ幸せそうなカップル達に祝福の声を送ってやりたくなる。
店頭のケーキ売りにしても、以前は前を通る度に睨みを利かせていたものだが
最近では『頑張ってくださいねぇ』なんて労いの言葉なんか掛けたりできる。
私もえらく大人になったものじゃないか。
しかし、クリスマス時期のあの厚かましい接客はどうにかならんものか。
特にケーキ販売のお姉さんはグイグイくるから困ったものだ。
『お兄さん!可愛い彼女さんに一つどうですかぁ!?』なんて言われたら
私のような見栄っ張りは
『あっ、彼女甘いの苦手なんすよ~』なんてホラを吹いては尻尾を巻いて逃げて
家に帰ってから『このホラ吹きめ!』と罪悪感に苛まれる始末である。
かといって『彼女いないんですけど・・・』なんて馬鹿正直に答えて
重い空気だけ残して去っていくのも考えものだ。
『実は私もいないんです。良かったらこのケーキ、一緒に食べませんか?』なんていう
素晴らしいシチュエーションにでも発展すれば言うことないのだが
所詮、あとで笑いのネタにされているのは目に見えている。
わざわざ年の暮れに赤っ恥をかく必要などない。
モテない男子は家に引きこもって、大人しく七面鳥でも焼いてればいいのだ。
チキショー!
 

写真の巻

2013年11月26日

『お前のブログは写真が少なすぎる』
そういったご指摘を受け、『確かにそうだ』という実感はあったものの
ではどういった写真を載せればよいものかと疑問に思いながら
本日の夕餉を撮ってみたところ、何とも質素で見窄らしい有様だったため
『こりゃいかん』と、ロケハンも兼ねてふらり街に繰り出してみた次第である。
如何せん、そう毎日おもしろい事など転がっているわけではない。
友人たちとの他愛のない遊びをブログで公表したとて、大した面白みはないだろう。
それに、基本的にブログ上では個人名の記載を避けている。
これはプライバシーを守るなんていう取り繕った意味ではなくて
ただ単に『私の知人が読者の知人だとは限らない』という観点からそうしていることである。
『昨日、友人Aと食事に行った』という記事を書いたとしても
読者からしてみれば『Aって誰やねん』となることは明らかだ。
こういったことから、やはり自分にはコラム調のブログが合っている。
出来るだけプライベートの出来事なんかも写真付きでアップしたいとは思っているのだが
私のプライベートなど誰が見たいのかと思うと些かの辟易を覚えてしまうのも無理はない。
ちなみに言うと
先日、阿部真央のライブに行ってきた。
彼女、なかなかいい歌を歌うのだ。
日頃やかましいライブにばかり足を運んでいるためか、相当な癒され具合であった。
写真?無論、あるはずない。
もっと写真を撮らねばなあ。

訪問の巻

2013年11月25日

つい昨日の話。
玄関を開けると、二人のご婦人が立っていた。
随分と教養の良さそうな風合いが顔に出ている。
低学歴の私はその時点で怪訝な顔つきを隠せない。
申し訳なさそうに私の顔色を伺うと、一人のババア・・・いやご婦人が
『お兄さん、今は幸せですか?』とド直球を投げつけてきた。
その突拍子もない唐突な質問に一瞬答えを探す私。
それを見逃さなかったご婦人は間髪入れずに
『人は幸せになるために生きていると思いませんか?』
うむ、ごもっとも。おっしゃる通り。ではさようなら。
と、ドアを閉めるはずだったが、次の一言が私の中の哲学スイッチを押すことになるとは
この時のババアは知る由もなかったのである。
『この世には不幸な方がたくさんいらっしゃいます』
哀れみの目を私に向けながら、慈悲深く憂いてらっしゃるようだが
待ちたまえ。これは言っちゃいかんだろう。
胡散臭い占い師じゃあるまいし、一端の宗教家が
『不幸な方がいる』と断言してしまうのは穏やかではない。
まるで自分たちは幸せな人間だと言いたいように聞こえる。
『私の言うとおりにすれば、私のように幸せになれますよ』とでも言いたいのか。
いや、そう言いたいのだろう。
だからこうしてわざわざ私の自宅まで押し掛けては熱心に布教しているのだ。
幸か不幸かなんて自分が判断するものであって、人が兎や角言うものではない。
仮に誰が見ても『不幸』な状況であっても
本人が幸せならそれは紛れもなく『幸せな人』なのだ。
といった具合に軽くジャブを入れてみたところ
『低学歴の人間は屁理屈ばかりで困りますわね~』とでも言うように
ババアたちはいかに自分が正しいかを主張し始めた。
もうこの時点で家に放り込んで徹底的に討論を交えたかったのだが
あいにく予定があったために
『時間がないので、また今度来てください』とお引き取り頂く結果になった。
何だか負けたような気分である。
去っていくババアたちの後ろ姿は妙に優越感が漂っていた。
今度来たら、あの幼稚な宗教論を思いっきり論破してやる。
もう来ないだろうけども。

夾雑の巻

2013年11月22日

祖父が他界したのは、私が5つか6つの頃であった。
人の死というものを知ったのはこの時が初めてだったが
なんとなく胸が苦しくなって悸れていく感覚を覚えた。
つい以前まで他愛のない話をしてはその温もりに触れていた人間が
途端にこの世から姿を消してしまったことに対して、あまり大きな実感などなかった。
ただ、静かに横たわる祖父の前で泣き崩れる母の姿を見て
『これは悲しいことなのだ』と幼いながらにも曖昧な理解を得たような気はあった。
自分もいつかはこうなるのだと、妙にハッキリとした命運を見たような気さえして
居た堪れなくなって、どこかへ逃げ出したい衝動に駆られた。
そしてその晩に恐くなった。
死があまりにも恬然と在ることが恐かったのだろうか。
何か悪いことをした人間だけが地獄に落とされ死ぬのだと思っていた私は
いつかやってくる来る自分の死を初めて知り、ただ悚然とするばかりだった。
それは大人になった今でも変わることはなかった。
ふとしたとき、いつか自分も無になり、この世から消えてしまうのだと思うと
言いようのない虚しさに苛まれることはある。
そしてその都度に、やはり人生なんてものは自分の好きなように生きるべきだと
改めて人生観を鑑みて自身へ問いかけるのである。
そう考えると、あの年齢で経験した祖父の死というのは
私の人生にとってかなり大きな意味を持っていたのだろうか。
やりたいことを我慢して生きるのは何よりも辛いものだ。
何かしら理由付けをして今の自分を肯定することは簡単だが
自己否定から見えてくる幸せというのもあるのかもしれない。

まぎらわしいの巻

2013年11月20日

携帯のハンズフリー機能を使って電話している人を見かける度に
『この人、ずっと一人で喋ってる!変な人!』と勘違いを起こしてしまう。
そして少ししてから『なんだ、電話してるのか』と気付いて
なぜか私の方が些かの恥ずかしさを覚えてしまうのだから腑に落ちないわけだ。
私の中でハンズフリーというものがまだまだ定着しきれていないのが問題だが
きっと同じような経験をした人は多いのではないだろうか。
ついでに言えば、犬の夜間散歩用の光る首輪も紛らわしい。
ツイッターでも書いたんだが
先日の夜中、近所の運動場で不規則に低空移動する発行物体を目撃して
私は真剣に『未確認飛行物体』の類だと興奮したわけだ。
近づいてみると、上記の光る首輪を付けた犬が走り回っていただけだった。
ガッカリである。
あの時の、私の少年のような胸のトキメキを返して頂きたい。
まぁこの世の中、紛らわしいことが多いのは事実だ。
紛らわしさに紛らわされぬよう精進していきたい次第である。
まぁ、この心の寂しさを紛らわしてくれるのなら話は別だが。

寒波の巻

2013年11月18日

遠くの寒檠が寂しく揺れているのを見ると
『あぁ、今年も冬が来たんだな』と在り来たりな感情が胸に広がる。
一体いつの間に一年が過ぎ去ってしまったのか。
心許なく暮れなずんでいく西の空を眺めながら
何とも言えぬ感傷を抱いて今宵も黄昏るのだった。
今年の年末年始は、かなりの長期連休になるとニュースでやっていた。
それでも毎年、法外な料金に跳ね上がる航空券でさえ飛ぶように売れるのは
世間様が普段いかに休みなく働いているかが伺える。
海外に渡航して普遍的な日常から離れることは大好きだが
私としては、やはり正月ぐらいは日本でゆっくりと過ごしたいという気分が大きい。
海外旅行というのは、案外疲れるものだ。
況してや年末年始ともなれば、もう空港の人混みだけで気疲れする。
せっかくの連休だからこそ、自宅でゆっくりすればいいのにと
そんな身も蓋もないことを思ってしまうのは私も歳をとった証拠か。

偽装の巻

2013年11月17日

食材の偽装表示が取り沙汰されている。
これは関係者の告発がなければ我々素人にはまるで検討もつかない。
例えば、タイ産ブラックタイガーを国産クルマエビと偽って料理を提供され
『これは国産じゃない!タイ産ブラックタイガーだ!』と
言い当てられる人間など、果たしてどれほどいるだろうか。
もちろん『騙す』という行為自体は道徳的に間違っているが
安価な食材を代用しても十分に美味しく頂けるのであれば
私は別にそこまで扱き下ろして咎める必要もないのではないかと思ったりする。
そりゃあ、偽装がないに越したことはないけれども。
しかしまぁ、飲食業界もなかなか手厳しい現状なのだろう。
原価のコストダウンは避けられず、本当にいいものを提供すれば儲からない。
『本当にいいもの』に囚われすぎて、店側が拘りすぎるのも考えものだ。
誰だって美味しいものを食べたいし、美味しい店を発見すると嬉しいものだが
わざわざ高級食材なばかり使用しなくても、普通の食材でも十分美味しいはず。
私のように大概のものは『うまい』と言って平らげてしまう人間がほとんどだろうし
結局、料理というのは愛なのだ。
愛情込めて作れば何でもうまい。
 

湯の巻

2013年11月14日

旻天は冬色に染まり、街も色褪せたように淋しくある。
昨晩からえらく冷え込んで底冷えの朝となった。
北側では大雪に見舞われ、まだ11月だというのに町は雪景色に埋まっている。
こんなに寒いと、やはり温泉にでも浸かりたくなるのが心情だ。
今年は山形県あたりの温泉に出向いてみようかと仲間内で盛り上がっている。
温泉の何が好きかと言えば【温泉に浸かる】ことが一番ではない。
私の中で一番大事なのは【情緒に浸かる】ということだ。
ハッキリ言ってしまうと、湯の効能だとかはどうでもよい。
何なら、ただの湯にバスクリンでも何でも放り込んでおいてくれてもいい。
私がなぜ温泉地へ出向くのかというと
それは喧騒から離れた夢現にしっぽりと沈み込むためだ。
『雪国の温泉街』だなんて、もうその言葉だけで心躍ってしまうではないか。
虚無の中にひっそりと佇む温もりこそ、私の求めるそれである。
冬の間はどうも蟄伏を決めこんでしまうことが多い。
まぁ週末になればスノーボードに一喜一憂するわけだが
基本的には自室に閉じこもり、冷たいガラス越しに濛昧する空を眺めるという
何とも田舎のジジイのような暮らしぶりである。
この歳でこれだと、本当にジジイになった時どうなるのだろうか。
悟りの一つでも開いて子供らに説法を垂らし前人未到の涅槃に沈むなんていう
往生は・・・できやしない。
恐らくガンジス河あたりでインド人に混じり沐浴でもしているのが関の山だろう。

​【旅日記】タイのソンクラーン編

2013年11月12日

4月12日。
バンコクへ降り立ったのは、夜の9時頃であった。
鬱陶しく蒸し返す熱気で、少しの息苦しさを覚えた。
タイの一年の中でも最も暑い時期で、立っているだけで滝のように汗が吹き出てくる。
なぜ、わざわざそんな時期にタイにいるのか。
まずは事の発端を前置きしておくことにしよう。
『ソンクラーンって知ってる?』
唐突に話しかけてきたのは、同じゲストハウスに泊まっているイタリア人女性だった。
使い古したモップのようなドレッドヘアを指で遊ばせながら
『ウォーターフェスティバルよ。知らないの?』と
まだ20歳そこらの私に、辿辿しい英語の中にも皮肉がハッキリと分かるように言った。
実際、私はそれを知らなかった。
ソンクラーンが『水かけ祭り』という有名な祭りだと分かったのは
日本に戻ってそれから暫くしてからだった。
それはタイの旧正月に行われる祭りのことで
毎年4月の13日から15日までの3日間、ただひらすらに水を掛け合うという何とも
原始的かつクレイジーなフェスティバルがあるのだという。
義務感にも似た欲望がスーッと私の中を満たしていくのが分かった。
刺激に飢えていた若き青年を動かすには十分すぎる魅力がその『祭り』にはあった。
そして翌年の4月12日、一年で最も暑い時期にわざわざバンコクで過ごすに至る。
『ハロー!』という叫び声と同時にバケツいっぱいの水を頭からかけられた。
ソンクラーン当日の朝、コンビ二へ向かおうと宿の玄関を出たところであった。
参った。
頭の天辺から爪先までプールにでも飛び込んだようにズブ濡れだ。
一瞬ワケが分からず、横を見るとバケツを持った地元の兄ちゃんがゲラゲラと手を叩いて笑っている。
このソンクラーンというものを、どうやら私は大きく勘違いしていたようだ。
ただ単に『ソンクラーン』というフェスティバルが開催されるのだとばかり思っていた。
しかし違っていた。
この3日間は、24時間ずっとソンクラーンなのだ。
日本の正月のように、多くの店はシャッターを下ろしている。
コンビ二は営業しているものの、商品棚はビニールシートで覆われている。
レジの女の子の髪の毛からはポタポタと水が滴っていた。
そしてズブ濡れの私を見てクスクスと笑った。
バスの運転手も乗客も、バイクに乗っている人も
ただ買い物に行く途中の人も、もちろん観光客も
屋外にいる全員がズブ濡れであることに気付いた頃
私はようやく全てを受け入れることができたのだった。
大通りへ出てみれば、もう何処もかしこも水浸しで
10メートル進む度にバケツで水をかけられる始末だった。
これはもう早めに『かけられる側』ではなく『かける側』に回らねばと
さりげなく地元民に混じってバケツをゲットした次第である。
異文化というものは、テレビや雑誌で見ているだけでは到底理解が出来るものではない。
異文化を理解する必要性を問われればそれは分からないが
我々が許容し難い文化が世界中にはまだまだ山のように溢れている。
そんな 世界に存在する様々な文化に飛び込み体験することが
人生において何かとてつもなく大きな意味を齎すものだと私は信じてやまない。

煩悩の巻

2013年11月11日

今頃になって、賛美歌の幻想的な世界観に甚く感動している。
全く以て無宗教の私ではあるが、そんな私でさえ賛美歌を聴いていると
『おお、神様!私めにご加護を!』
だなんて都合よく神の思し召しを肖ろうとしてしまうのだから
厳格なクリスチャンであれば尚更に陶酔してしまうのも無理はない。
ブルガリア民謡なんかでも言えることだが
優美な音階の中に、それらを無視した一際力強く存在感のある不協和音がある。
善の中に悪が混同するように、まるで森羅万象が音階となって具現化していて
これが壮大で神秘的で、言葉に表せない世界観を醸し出しているのだ。
まったく、昔の人の美意識というか、完璧を求める姿勢には本当に感嘆させられる。
神仏を拝み倒すような敬虔な人間にはなれないが
少なくとも、このような声楽は私の煩悩を一つ二つ取り払ってくれるような気がする。
 

 
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