JUG A BILLY CATS

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ウッシーのコラム

ドロンの巻

2013年03月31日

岐阜の山奥にドロン!

神戸の巻

2013年03月30日

WEEZER!!!
いいライブだった。
ノーエフは微妙。
というか今回の会場、音響悪すぎて萎えたでござる。
一流のエンジニアが集まって何をやってるんだか。

缶詰の巻

2013年03月29日

どこか貧乏臭く質素なイメージだった缶詰も
もはやブランド志向さながらに世界中に注目される時代となった。

そんな中でもコアな缶詰フリークから絶大な支持を受けているのが『いなば食品』だ。
ネット上でカルト的な人気を誇っていた『ツナとタイカレー』シリーズ。
メディアで紹介され始めてから猛烈な勢いで売れに売れまくり売り切れ続出。
工場フル回転でも生産が追いつかないというのだからすごいものだ。

本場タイで 生産しているだけあって味は秀逸である。
タイ料理店でグリーンカレーを食べると600~700円するが
それが100円で売ってるわけだから流行るのも納得だ。
少し本気を出してタイ米を炊けば尚良し。
そしてタイポップスでもかけながら
物足りなければナンプラーをぶちまければいい。
するとそこはもう混沌の街、バンコクである。

缶詰もいつしかプルタブ式になり
一生懸命に缶切りで格闘していたあの頃とは違うわけだ。
それはそれで寂しくもあったりする。

タイに行きたい。
タイの路上で売ってる絞りたてオレンジジュースが飲みたい。
あれを飲んでしまうと、普通のオレンジジュースは飲めない。
いやほんとに。

虚無感の巻

2013年03月28日

それなりに充実しているであろう毎日の中で
ふいにやってくる虚無感のようなものは何なのか。
それはゆっくり近付いてくるのではなくて
気がつくとすぐ真横にあったりするわけで
自分でも豪く驚いてしまうことがある。

報われない努力や叶わぬ夢なんてものは誰だって胸中に持ってるもので
そんなことにいちいち立ち止まり虚無感を抱いていてはキリがない。
それでいてもなぜかふと立ち止まってしまう時はある。
そう、それがたとえ幸せに満ち溢れた日々でも。

長い人生の中で
自分の選ぶべき道、目指すべき場所というものが蜃気楼のように浮かんでは消えて
それがいつしか虚無の濃霧となって視界を奪いはじめる。

一歩踏み出すことに怖気づいて、その場に立ち竦んだまま人生を鑑みたときに
『あぁ、俺は一体なんのために生きてるんだろう』なんて
まるで絵に書いたような欝情に苛まれては苦しみ
躍起になって自己嫌悪の檻の中から逃げ出そうと必死になる。

こういった異常にも見える悲観感情は実は決して異常ではなく
恐らく誰だって一度は経験したことのあるものではないかと思われる。

それなりに充実した人生に突如やってくるこの厭世的な虚無感は
徒らに心の中に穴を開けて去ってゆく。
船出に逆らう波のように、大きく砕けては消えてゆくのだ。
成長とは何とも歯痒いものである。

高卒の巻

2013年03月26日

『衒学的(げんがくてき)』という言葉がある。
『学殖を必要以上に見せびらかすこと』という意味だ。
簡単な話が
『俺ってこんなこと知ってるんだぜ、すごいだろ』と
優越感に浸って調子に乗る人間を指す言葉である。
このような『衒学的』なタイプの人間というのは
いつの時代も煙たがられ、皮肉を言われるものだ。

時折、ブログを読んで頂いている方から
『読めない漢字が多い』と指摘されることがある。
もしかするとそんな私も
『衒学的な人間』だなんて思われる可能性はあるのかもしれない。

しかし、それは日常生活、日常会話において
わざわざ難しい言葉を引き合いに出す人間のことを云うのであって
文面においては至って常套なものである。
文学の世界においても
『あの作家は衒学的すぎる』なんて辛口を切られたりするが
文学だからこそ衒学的であるのだ。

そもそもブログなんてものは本来、
有名人や著名人のプライベートが垣間見れることにメリットがあったわけだ。
私のような凡人のプライベートを垣間見たいと望んでいる物好きな人間などあるはずもない。
それならば、せめて文面としてのエンターテイメントに少しでも近づけようと
無い知恵を絞り、ただの雑記をコラム風に見せかけているのである。

大した語彙もなければボキャブラリーもないが
中学生の日記のような文面を延々と垂れていても誰も得しないだろうし
どこかの誰かが通勤途中や、大便と奮闘中にでも暇つぶしにしてくれればよい。

ちなみに、 頭の良さそうな言い回しをしているだけで
実際はただの高卒のボンクラなので悪しからず。

スタートの巻

2013年03月25日

別れは出会いの始まりであり、その逆もまた然り。
惜春の想いが桜に淡く混じる様子を
大人になった今、改めて遠目で眺めながら
なぜだか目頭が熱くなっている。

自分の子供が卒業するわけでもあるまいし
何をそんなに感慨深くなっていることやら。

しかしながら、現代の学生たちにとって
『卒業』というイベントは一つの区切りに過ぎないのかもしれない。
みんな携帯を持っているし、卒業してもいつだって連絡は取り合えるのだろう。
惜別という言葉はすでに色褪せてしまったのか。

卒業を機に連絡が取れず疎遠になってしまった同級はたくさんいる。
それらを旧友と呼んでしまうことに些かの抵抗はあるが
人生なんてそういうものだと変に大人ぶって過ごしている反面
こういう卒業の時期になると
かつての友の顔がふと浮かんだりするものである。

そういえば
卒業式のあと『学生服の第二ボタンをもらう』という風習は未だにあるのだろうか。
そもそも第二ボタンという言葉自体が死語かもしれないが。
当時は恥ずかしくて胸にしまい込んだ惟いも
年をとれば甘酸っぱい青春の思い出へと姿を変える。

少年よ、頑張って青春するのだ。
大人になっても青春はできるが
少年時代の青春こそ人生の大きな糧になるのだぞ。


そういえば今週末はパンクスプリング。
ウィーザーとノーエフ観に行きます。

満身創痍の巻

2013年03月25日

疲れすぎて吐きそうである。
ライブ終わってそのままスノーボードなんて行くもんじゃない。
しかし春間近の夕暮れというのもいいものだ。
おやすみなさい。

ホカゲの巻

2013年03月22日

楽しい夜であった。
LEFT ALONEの面々はクールにライブをこなし
浴びるように酒を喰らって帰って行った。
やはり外人というのは華があるものだ。
ステージに立つだけで何だかカッコイイんだから悔しい。

堺ミーティングの翌日にも関わらず
チャイナワイフ、ビーストのみんなも駆けつけてくれた。
最高にホットな空間だったのは言うまでもない。

LEFT ALONEがTシャツをプレゼントしてくれたが
いざ着てみると大きすぎて着れないのでパジャマにする所存である。

そしてホカゲの佐野くんにステッカーを貰ったが
なんか夢に出てきそうで怖いので引き出しにしまっておく所存である。

さーて、明日もライブだ。
戦国大統領でアコースティック投げ銭ライブ。
しかも久しぶりにジャグバンドスタイルなのだ。
レアなので是非おいでやす。

午前中は久しぶりに単車で出かけよう。

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寝つきの巻

2013年03月20日

最近、寝不足のくせに寝つきまで悪い。
眠りの扉が開かれるまでにかなりの時間がかかる。
快眠音楽と呼ばれるものは端から端まで試してみたが
むしろ目が冴えてしまって意味がない。
羊なんて数えたところで途中でアホらしくなって投げ出してしまうし
添い寝して子守唄でも歌ってくれる美女がいるわけでもない。

体が疲れてないということか。
精神面ばかり疲労して体力は有り余ってると?
確かに運動という運動はまるでしていない。
ジョギングも今となっては遠い思い出である。
まったく、自分の根性の無さに呆れかえるばかりだ。

日常において、必然的に運動せざるを得ない状況を作り出すしかない。
食い逃げでもするか?
ヤクザのベンツを蹴り上げて逃げるか?
いや、人様に迷惑をかけてはいけない。

便利な世の中というのは考えものだ。
多少は不便である方が『生きること』に魂を燃やせるんじゃないか。

義務教育でも自給自足で生きる術を教えるべきだ。
火の起こし方とか、狩りの仕方とか。
いつ文明を剥ぎ取られてもいいように
子供の頃から教えておくと損はない。

携帯で調べれば情報なんてすぐに手に入る時代だが
携帯そのものが使えない状況だとまるで意味がない。
物に依存する時代が続けば必ず困るときがくるはずだ。

煩雑な日々の巻

2013年03月19日

煩雑な日常に躓き嘆いている大人が
『あぁ、昔に戻りたい』と呟いている様は
あまりに滑稽であり、あまりに切実でもある。

誰しもが早く大人になりたいと願ったあの日に
敢えて戻りたいと願うその心情は至って簡単だ。
『楽しかった』からだ。

将来の幸せのために推敲し築き上げた人生が
なぜか少年時代の何でもない日常の前では霞んでしまう。
そりゃあ、詭弁で誤魔化した人生など少年時代の夏休みのうちの一日にも及ぶまい。

無論、自身の少年時代を恨み
パンドラの箱にでも押し込んでは過去ごと消し去ってしまいたいと願う大人もいることだろう。
しかし大抵の大人は自分の少年時代を羨むのである。

しかし、他人の幸せを羨むのは至って普通だが
自分が実際に過ごした日々を羨むなど何とも滑稽ではないか。
『何がそんなに楽しかったのか』と問われると誰だって答えに困るのだ。
ただただ、楽しかった。

記憶というのは時間とともに美化されるものではあるが
そんなマネーロンダリングのように都合よく綺麗に書き換えられるものか。
いくら遠い日の記憶とはいえ
楽しかった日々は確かに楽しくそこに存在していたのだ。

ということは『今 』という時も
いずれは『昔』に変わるわけである。
20年後にはきっと『あぁ、昔に戻りたい』なんて思うはずなんだから
それならば、たった今、20年後から戻ってきたと思えばいいじゃないか。
過去は変えられないが、未来なら変えられるのだ。

 
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